2009年06月16日

個体差もあるが、おおむね生後6ヶ月から12ヶ月

個体差もあるが、おおむね生後6ヶ月から12ヶ月で性的に成熟し、その後、定期的に発情する。発情の周期についてはいくつかの説がある。
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周期はおおむね3ヶ月。完全室内飼育の場合など、周辺の環境によっては周期が早まることがある。
冬から春の始まりごろと、春の終わりごろから夏の終わりごろの2シーズン。一つのシーズンの間に数回発情する。
1 - 2月ごろ、5 - 6月ごろ、8 - 9月ごろに発情する。
発情期間は3 - 6日程度であるが、その間に交尾が行われない場合、10日ほどになることもある。

発情すると、地面や柱、時には人間の膝等に体をこすり付けるなど行動に変化が現れ、ときには意地でも外に出ようと暴れることもある。

オスの発情 [編集]
メスよりやや2、3ヶ月程度遅れて成熟するが、これも個体差が大きい。定期的な発情期はなく、メスの発情に誘発されて発情する。

発情すると、スプレー(尿マーキング)と呼ばれる特徴的な行動を行うようになる。オス同士の喧嘩も多くなる。また、まれにメスでもスプレーをすることがある。

交尾 [編集]
交尾は両性の合意によって行われ、メスがオスを気に入らなければ、オスが無理に交尾をすることはないとされている[要出典]。通常、交尾はオスがメスの背中に乗り、オスがメスの首筋を噛んでメスが逃げないようにして行う。ネコの交尾は相手が1匹に限定されるものではなく、機会があればオス・メスともに複数の異性と行う。よって、同時に生まれた子猫の父猫が別のネコであることはよくあることである。ネコは交尾の刺激によって排卵が行われるため、妊娠率は比較的高い。オスの陰茎には棘(とげ)状の突起があることが知られているが、これは刺激によって排卵を誘発するため、と考えられている。去勢したオスでは、この突起が消滅する。

2009年05月30日

中国との通交

中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。 近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、山東省付近から来たと言われている。 更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある[11]。

稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている。

また近年、渡来系弥生人のDNAとお酒に弱い人の遺伝子の関連性が調査されている[13]。
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弥生時代の開始についてはかつて中国の春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えがあったが、弥生時代の開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定するか、あるいは殷から周への政変に関連付ける考えが検討されるようになった。

中国の史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、ついで漢書が前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。

『後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。

三国志の『魏志倭人伝』は、3世紀の倭国の状況を詳しく記し、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。

中国の三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。

山梨県西八代郡市川三郷町(旧三珠町)の鳥居原塚古墳出土の赤烏(せきう)元年(238)の紀年銘をもつ。
兵庫県宝塚市安倉古墳(あくらこふん)出土の赤烏七年(244)の紀年銘をもつ。

2009年04月27日

建設資材の大半を輸送

NASAが運用中。ISS建設資材の大半を輸送するほか、7名の人員とロボットアームを搭載でき、特に建設初期段階では作業基地の役割も果たした。2010年に予定されている運行終了まで、建設資材と補給物資の輸送に使用される。人員交代にも使われるが、ソユーズ宇宙船を6箇月ごとに交換する際に人員交代も行えるため、補助的な役割にとどまっている。

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日米欧の実験モジュールなど、ロシア以外の与圧モジュールはスペースシャトルで輸送される。このため、これらのモジュールは全てスペースシャトルのペイロードベイに合わせた寸法、形状、重量になっている。ただし、スペースシャトルの度重なる改良(主に安全性向上)により搭載可能な重量は計画当初より減少しているため、一部の大型モジュール(デスティニー、きぼう船内実験室)は船内機器の一部を別便で輸送せざるを得なくなった。

補給には、大きく分けて4つの方法を用いる。ひとつは、スペースシャトルの船内に補給品を搭載し、ドッキング装置を通して運搬する方法である。ドッキング装置の通路は直径60センチメートル程度と狭く、船内スペースを使用するため輸送力は小さいが、補助的に毎回使われている方法である。

2つめは、ペイロードベイにスペースハブ輸送モジュールを搭載する方法である。船内より多くの補給品を搭載できるが、やはり大きな物資は輸送できない。次のMLPMが導入されると使われなくなった。

3つめは、ペイロードベイに多目的補給モジュール(MLPM)を搭載する方法である。MLPMはペイロードベイから取り出され、ユニティまたはハーモニーに直接結合される。サイズが大きい共通結合機構(CBM)を使うため、ISPRなど大型の機材を輸送できるほか、小型物資も広い通路を利用して効率よく搬入できる。作業終了後のMLPMはペイロードベイに戻されて持ち帰られる。

4つめは、ペイロードベイ内に露出した形で輸送する方法である。ISSの外部に設置するバッテリーやタンクなどの部品を交換する際には、アダプターを使用して搭載する。

ソユーズ宇宙船

ロシアが運用中の3人乗り有人宇宙船である。ISSに非常事態が起きた際の脱出用救命ボートの役割を果たしている。この用途に対しては、アメリカが乗員帰還機(X-38 CRV)を開発して置き換える計画だったが、こちらは中止された。2008年現在、ISS長期滞在は3名なので、ソユーズが常時1機備え付けられているが、将来6名に拡張されるとソユーズも2機常備されることになる。緊急時に利用しやすいよう、ISSの中央に近いザーリャ前方の地球側にドッキングするが、2機に増えた場合はさらにズヴェズダ前方も利用する。ズヴェズダの後方はISSの末端にあたるので、通常は利用しない。

ソユーズの軌道上での寿命は6ヵ月なので、6ヵ月ごとに新しいソユーズを打ち上げて交換する。この際、滞在3名中2名がソユーズとともに交代するが、ソユーズは3人乗りなので、1人分の空席はISSへの短期訪問(新しいソユーズでISSへ向かい、古いソユーズで帰還する)に利用される。このような便乗者をタクシークルーと呼び、ロシアが利用権を販売している。私的宇宙旅行でのISS訪問や、マレーシアや韓国によるISS訪問はこの枠を利用したものである。ただし、滞在人数が6名に増加すると交代者も増加するため、タクシークルーの搭乗機会がなくなる可能性もある。

2009年04月11日

惑星の形成

様々な惑星は、太陽の形成後に残ったガスや宇宙塵の円盤から形成されたと考えられている[23]。今日最も広く受け入れられている仮説は、降着円盤モデルとして知られているものである。このモデルでは、まず宇宙塵が太陽の周囲の軌道を回り始め、次々に衝突して1kmから10km程度の微惑星という塊を作る。その後数百万年間は衝突により、1年あたり数cm程度の速さで成長する[24]。

太陽から4天文単位以内の内部太陽系では、水やメタン等の揮発性の分子が凝縮するには温度が高すぎるため、金属(鉄、ニッケル、アルミニウムなど)やケイ酸塩などの融点の高い物質が微惑星を形成し、岩石質の惑星(地球型惑星:水星、金星、地球、火星)になった。これらの物質は宇宙では珍しく、星雲中には0.6%程度しか存在しないため、地球型惑星はそれほど大きく成長できなかった[8]。岩石質の微惑星は地球質量の5%程度まで成長し、その後は衝突合体を繰り返して大きくなったが、太陽形成後10万年程度で集積が止まった[25]。

巨大ガス惑星(木星型惑星:木星、土星、天王星、海王星)は、火星軌道と木星軌道の間の、揮発性物質が凝結して固体になる凍結線よりも外側で形成された。木星型惑星を形成する氷は地球型惑星を形成する鉄やケイ酸塩よりも豊富にあり、宇宙に最も多量に存在する水素やヘリウムを捕獲するのに十分な質量を持つに至った[8]。凍結線より外側の微惑星は、300万年の間に地球質量の4倍程度になった[25]。今日では、4つの木星型惑星の質量を合計すると、太陽の周りを回る天体の全質量の99%にもなる[26]。木星が凍結線のすぐ外側に存在することは、偶然ではないと考えられている。凍結線上には蒸発した大量の水が溜まるため、圧力が低い領域が形成され、軌道上を回っている宇宙塵を加速するとともに太陽の方向への動きを押しとどめる。この効果により、凍結線外の物質は5天文単位以上太陽に近づくことができなくなる。これによって物質の集積が加速し、地球質量の10倍程度の塊ができる。これが周囲の水素を取り込み、1000年程度で地球質量の150倍まで成長し、最終的には地球質量の318倍になった。土星は、木星より数百万年後になって形成されたため、周囲に利用できるガスが少なく、木星と比べて若干小さくなった[25]。

若い太陽の様なおうし座T型星タイプの星は、安定した古い星に比べて、強い恒星風が吹く。天王星と海王星は、木星と土星ができた後、太陽風が強く吹き始めて、ガスや宇宙塵の多くが散逸してから形成されたと考えられている。結果として、これらの惑星が獲得できた水素やヘリウムは1地球質量に満たない程度となった。天王星や海王星はしばしば明確な核を持たないとも言われている[27]。これらの惑星の形成理論の上での問題点は、形成のタイムスケールである。現在の位置で形成されたと仮定すると、核が形成されるまでに1億年もかかる。そのため、天王星と海王星は木星と土星の間くらいの位置で形成されてから外側へ移動(ミグレーション)した可能性もある[28][27]。惑星の移動は常に太陽の方向に向かうものばかりではなく、宇宙探査機スターダストによるヴィルト第2彗星からのサンプルリターンによって、太陽系形成時の物質が太陽の方向からエッジワース・カイパーベルトの方向へ移動したことを示唆する結果が得られている[29]。

300万年から1000万年後には[25]、若い太陽の太陽風によって原始惑星系円盤のガスや宇宙塵が全て宇宙空間に吹き飛ばされ、惑星の成長が止まったと考えられる[30][31]。

その後の進化 [編集]
かつて、惑星は現在見られる位置の近傍で作られたと考えられていた。しかし、20世紀終わりから21世紀初めにかけて、この考え方は劇的に変わりつつある。現在では、今の太陽系の姿は形成当時とかなり異なっていると信じられている。例えば、内部太陽系に少なくとも水星程度の大きさの天体がいくつかあり、外部太陽系は今よりずっと小さく、エッジワース・カイパーベルトは太陽に近かったと考えられている。

地球型惑星
惑星の形成がほぼ終わる頃には、内部太陽系には月から火星程度のサイズの原始惑星が50個から100個程もあったと考えられている[33][34]。その後数億年かけて衝突や融合を繰り返して今の姿に近づいてきた。これらの天体はお互いの重力に引かれあって最終的に現在の4個に落ち着いた[25]。この際の大きな衝突によって、月ができたり、水星の外殻が消失したりしたと考えられている[35]。

このモデルでの未解決の問題の1つは、初期の楕円に近い内惑星の軌道が、いかにして今日のほぼ円に近い安定軌道に移ったかということである[33]。この離心率の減少に対する仮説の1つは、地球型惑星の周りに残ったガス円盤との間に力学的摩擦 (dynamical friction) が働いて運動エネルギーが低下し、軌道が変わったというものである[34]。しかしそもそもそのようなガスが残っていたら、初期の軌道自体が楕円にはならなかったとも考えられる[25]。もう1つの仮説は、力学的摩擦は惑星とガスの間ではなく、惑星と当時残っていた小天体の間に働いたとするものである。大きな天体が小天体で混み合った中を通ると、大きな天体の重力に小天体が引き寄せられて密度の高い「航跡」が形成される。この航跡の重力によって大きな天体の進行速度が遅くなり、軌道が変わったと考えられる

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2009年03月27日

パンチラの歴史

パンチラがいつ頃から注目されるようになったのかは不明である。1986年の現代用語の基礎知識で初掲載されたが、実際は1970年代より使われている。日本では、和服の時代には基本的に下穿きは身につけないものであり、裾がまくれた場合にはパンティーではなく性器が見えてしまうという状況であった。しかしながらこの頃からの羞恥心の変遷について研究した井上章一によれば、この頃にはそれはさほど「見えてしまうこと」はおおごとではなく、日常的な風景であったとされる。また、そのような視点から白木屋火事のエピソードを否定している。

その後、洋装に切り替わり、女性が下穿きを身につけるようになり、次第にパンティーが見えることがおおごととして受け止められるようになるが、その明確な時期は不明である。マリリン・モンローの出演した映画『七年目の浮気』(1955年)においてスカートが大きくまくれあがるシーンがあり、話題を呼んだ。日本では1969年には、小川ローザが出演し「オー!モーレツ」のキャッチフレーズで一世を風靡した丸善石油のテレビCMで、ミニスカートがめくれるシーンがあり、話題になった。また前後して、1968年から連載がはじまった永井豪の漫画作品『ハレンチ学園』によってスカートめくりが流行した。遅くともこの時期にはすでに「パンチラ」という概念がある程度定着していたと考えることができる。

1970年代から1980年代にはパンチラが人々の関心を集める効果が注目され、青少年向け雑誌のグラビアだけでなくテレビCMの常套手段となり、テレビドラマなどにもしばしば登場した。その後雑誌のグラビアなどが過激な方向にシフトした事、ミニスカートが一般に浸透し、見える可能性がある場合には見えてもいいものを重ね穿きする習慣が普及した事などの事情が重なり、パンチラそのものは大きく注目度を落とした。また、パンチラが男性の性的な視線を集めることが周知されそれに対して嫌悪感を持つ人が増えたため、テレビなど不特定多数を対象とした媒体ではほぼ見られなくなった。しかし「清純派タレントの穏やかなお色気カット」などとしては、その後も注目されている。一方で、階段などでの盗撮行為が犯罪として社会問題化しているため、女学生はスカートの下に体操ズボン・スパッツ・レギンス・ブルマーを着用していて、成人の女性はほとんどが、ジーンズやパンツルックになっていて、スカートをはいているほうがはるかに少ない。

アニメなどでのパンチラ表現 [編集]
小学生またはその前後に相当する年齢の女児に関するパンチラやパンツ丸見えシーンは、その女児の「元気のよさ」の象徴として一般的な演出方法であり、類例は多い。アニメーション映画の『パンダコパンダ』(1972・1973年)の主人公のミミ子や、『ムーミン』(1969・1972年)のミイなどが例として挙げられる。『サザエさん』(1969年?)のワカメ(原作の描写にもよる)なども同様である。ただし、これら作品において見えるパンツは俗にかぼちゃパンツと呼ばれるものだった。これに対し、『ドラえもん』(1979年?)の源しずかは体のラインを想起させるパンツであった。

バトルアニメに置いても体を激しく動かすためパンチラ描写は当たり前のように存在している(『科学忍者隊ガッチャマン』の白鳥のジュンなど)。

2000年代に入り、女児のアニメでのパンチラ表現はサザエさんやクレヨンしんちゃんを除きあまり見られなくなった。日本のアニメが海外でも数多く放映されるようになり、自主規制が高まったことなどが背景にあるとされる。初期にはパンチラが時々見られ、商品化された人形・ぬいぐるみでもパンツ丸見えだった『ちびまる子ちゃん』や『ブラック・ジャック』のピノコなどからもその種の表現がなくなっている。

近年においてアニメ等におけるパンチラ表現は、最初から視聴者に見せる事を意図した深夜アニメやOVAのものに限られつつある(ただし劇場公開作品では、イベントとして大胆なパンチラやパンモロが描かれる事も少なくない)。

プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー


2009年03月11日

エディンバラ旧市街

エディンバラ旧市街 (The Old Town of Edinburgh)は、スコットランドの首都エディンバラの一部。UNESCO世界遺産に登録されている。中世の都市図とスコットランド宗教改革時代の建物が多く残る。

一端はエディンバラ城と主要な幹線であるロイヤル・マイル、実際には4つに区別される通りであるキャッスルヒル、ローンマーケット、ハイ・ストリート、そして現在廃墟となっているホリールード寺院へつながるカノンゲイトによってふさがれる。狭いクローゼス(closes、小路)はしばしば数フィートの幅しかなく、ヘリンボーン模様(矢はず模様とも)の主な背骨のどちらの側にも下り坂へつながる。セント・ジャイルズ大聖堂やスコットランド最高裁判所のような主要な公共建築物または市場のある場所は、大きな広場のそばである。

スコットランド議会ビル、ホリールード宮殿、スコットランド教会ゼネラル・アッセンブリー・ホール、スコットランド・ロイヤル・ミュージアム、サージェオンズ・ホール、エディンバラ大学といった有名なものが旧市街にあり、おびただしい数の地下道と地下室、以前の建設過程の遺物などがある。通りの配置は北ヨーロッパ諸都市の旧地区の典型であり、エディンバラには岩山の上にそびえる城、死火山の名残などがあるため非常に絵画的であり、主な通りが山のうねの上から下ってゆく。

都市の地形『クラグ・アンド・テイル』(Crag and tail、平地にそびえる岩山や丘と漸減する斜面のこと)は後期氷河期につくられ、大地との間の氷河が刻んだ痕跡がおぼろげになり柔らかな土壌を押し出したときに誕生した。しかし、火山性岩の堅い貝砂層によって裂かれた。丘の上の険しい岩は都市の最初に発展した部分で、要塞化されすぐに現在のエディンバラ城となった。 都市のその他の残りは、城のある岩山から平地へとゆっくりと広がっていった。これは南部の湿地帯と北方のノール湖を伴う容易に防御可能な地となった。主な道から居住区へアクセスするのはたくさんの門と市壁を通らなければならないことで制限が加えられていた。市壁は唯一断片的に残る場所がある( フロドゥン壁など)。

斜面の狭さにより空間の制限が強いられたため、旧市街は初期の高収入者の一部の住居建築が並んでいた。多階住居は1500年代より後から規準となった。1700年代の旧市街はおよそ80,000人の人口を抱えていた。しかし、さらに近代へむかうとわずか4,000人にまで劇的に減った。最近は旧市街のあらゆる場所におよそ20,000人が住んでいる。長い間住民は防護壁外側に住居が建てられるのは気が進まず、住居の必要性への訴えが増加するにつれ建物はより高くなる傾向にあった。悲劇的なことに、これらの建物の多くは1824年大火で破壊された。元々の基礎の上に再建された建物は地面の高さを変えることになり、多くの通路と旧市街地下の地下室がつくられることになった。
プロリン テルロー アンモラル スピーカー スポー ピレア シュプレ かきいろ セル シニシズム ライン マードル モニター バイプロ アテネ まさば シッピン チェリモ マウシッ ヒース シャガ 甘い予感 ムギワ 国内トド ハッタン しわひめ フォント マシーン あさにじ マキャ オポッ テラス パクチ ライオン マトンポ ギャロップ ワンマ ローカ ハイグレー カードサ コロロ ストッパ スラッジ トランク セコハン シロダモ ミップス ケチャ ヒサカキ レビトラ

2002年12月7日、旧市街で起きた火事にカウゲイトの一部が飲み込まれた。有名なコメディー・クラブ『ザ・ギルデッド・バルーン』や、包括的な人工知能図書館を含むエディンバラ大学情報科学学部の大半が破壊された。


2009年02月23日

リンガラ語

リンガラ語は、コンゴで用いられるバントゥー語族の言語である。コンゴ民主共和国、コンゴ共和国、アンゴラ、中央アフリカ共和国に分布し、話者の人口は1000万強である。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

カトリック教会が布教のために用いた文語が標準語となっている。また両コンゴの首都では他のバントゥー語に大きく影響されたキンシャサ方言、ブラザヴィル方言が存在する。

1976年に Société Zaïroise des Linguistes が制定した正書法では広いエ,オを表すのにIPAにある?と?の字を用いるとされるが、印刷やキーボードの都合で?,?も狭いエ、オと同じくe,oと書くのが主流になっている。

母音
前 後
狭 [i] [u]
半狭 [e] [o]
半広 [?] [?]
広 [a]

表のような七母音の体系をなす。キンシャサ方言では?,?がe,oと区別されない傾向がある。
?,?とe,oは同じ単語に並存しない
á,é,í,ó,úのように'?'のついている字は高く発音する
â,ê,î,ô,ûのように'^'のついている字は高から低へ下がる
ǎ,ě,ǐ,ǒ,ŭのように'ˇ'のついている字は低から高へ上がる
a,e,i,o,uのようにアクセント記号のつかない字は低く発音する

子音
b[b]
cまたはsh[?]
d[d]
f[f]
g[g]
h[h]
k[k]
l[l]
m[m]
n[n]
ny[?]
p[p]
r[r]
s[s]
t[t]
v[v]
w[w]
y[j]
z[z] ※方言によっては[?]とも発音される

文法

名詞のクラス
他のバントゥー語と同様に語頭の音節が名詞の種類(クラス)を表す(下表)。名詞の語頭は形容詞、動詞と形を呼応する。またクラスが語義の分類を表している(1,2番は人、9,10番は動物、ただし例外も多い)。

番号 語頭 語例 訳
1 mo mopési 奴隷
2 ba bapési 奴隷(複数)
3 mo mukíla 尾
4 mi mikíla 尾(複数)
5 li liloba 言葉
6 ma maloba 言葉(複数)
7 e elokó 釜
8 bi bilokó 釜(複数)
9 N ntaba 羊
10 N ntaba 羊 (複数)
9a Ø sánzá 月
10a Ø sánzá 月 (複数)
11 lo lolemo 舌
14 bo bosoto 汚れ
15 ko kotála 見る、会う

番号は15あるが単数/複数が組になるので種類は7個である
9,10番は後続する音がt,dのときn、p,bのときmになる
9番のクラスで器具を表す名詞は複数でba-をとる
例:lutu(匙)- balutu,mesa(卓) - bamesa,sani(皿)-basani

9a,10aは語頭がないが文脈によって単複を判断する
14番のクラスは対応する複数形がない

2009年02月07日

足利政知・足利茶々丸・足利義維

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の足利氏一族で、初代堀越公方である
シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

1435年7月13日室町幕府第6代将軍・足利義教の次男として生まれる。母は斎藤氏。

第7代将軍・足利義勝の異母弟で、第8代将軍・足利義政と足利義視の異母兄。子に第2代堀越公方となった足利茶々丸、足利潤童子、第11代将軍となった足利義澄、小田成治の養子となった小田政治など。

室町幕府公認の関東公方として下向するが、幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、伊豆国の堀越公方にならざるを得なくなる。このため、終生関東で勢力を振るうことは無かった。

生涯
永享7年(1435年)、第6代将軍・足利義教の子として生まれる。幼少期から天竜寺香厳院の僧となったが、長禄元年(1457年)に還俗する。これは弟の第8代将軍・足利義政の命によるものであり、義政の名代として関東に降り、足利成氏(幕府に背き、関東で独立勢力化していた)を牽制することを目的としていた。

こうして、幕府公認の鎌倉公方として京を出発するが、成氏の勢力が強大なことと関東管領であった上杉氏内部で政知擁立に異論が出されたため、鎌倉に入ることができず、やむを得ず伊豆堀越に逗留せざるを得なくなる。以降は堀越公方として、成氏の古河公方政権と30余年に渡る抗争を繰り広げた。だが、上杉氏が成氏と和睦して幕府もこれを認めたために、政知は伊豆1国のみの支配者に転落した。このため、文明14年(1482年)12月に成氏と和睦している。

晩年には管領細川政元と連携して将軍足利義材の廃立を計画するが、延徳2年弟の足利義攻が病死して翌年の

延徳3年(1491年)1月7日に異母弟の足利義視が病死してさらに4月3日には政知が伊豆で病死したことによって挫折した。享年57。後を子の足利茶々丸が継いだが、政知の死から3ヵ月後に堀越公方家で内紛が起こり、堀越公方家は急速に衰退する。

人物・逸話
長年僧侶であったために政治・軍事的経験に乏しく、補佐である関東執事・渋川義鏡の讒言を信じて扇谷上杉家の上杉持朝の反逆を義政に通報して上杉氏の恨みを買って、結果的に自ら鎌倉入りの可能性を閉ざしたり、長男・茶々丸の廃嫡を諌めた義鏡の後任・上杉政憲を自害させたりしている。また当時幕府は応仁の乱の最中であったため満足な軍事力を付与してもらうことができず、終生関東一円を制することは叶わなかった。
義政や義視より年上であるが、弟とされているのは、義政・義視の母親が幕府で権勢を誇っていた日野家だったためと推測される。
政知は関東で権勢を振るうことはかなわなかったが、将軍実弟ということで関東における存在感は大きかった。そのため、その死により伊豆など関東は混乱し、北条早雲ら新興勢力の侵入・台頭を招くこととなる。

官職位階履歴
※日付=旧暦
1457年(長禄元年)12月19日、堀越公方就任。12月26日、還俗し、政知を名乗る。同日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。
1470年(文明2年)11月26日、従四位下に昇叙する。このとき、左兵衛督に転任か?
1475年(文明7年)9月9日、従三位に昇叙。左兵衛督如元。
1485年(文明17年)左兵衛督を辞任。

足利茶々丸

足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる、生年不詳 - 1491年または1498年(明応7年))は室町時代の武将である。父は初代堀越公方の足利政知(8代将軍義政の兄弟)。弟は足利義澄(11代将軍)、足利潤童子。没年は1491年、1493年など異説あり。茶々丸は幼名で、正式な元服をする前に殺されたので成人としての実名である諱は伝わっていないとされている。

潤童子とは異母兄弟で、茶々丸は嫡男であったが、素行不良の廉で父政知により、廃嫡されて土牢に幽閉されていたが、政知の死後、牢を脱け出し、2代目堀越公方に決まっていた弟潤童子とその母親を殺し、事実上の公方となるが家臣の支持を得られず、内紛は伊豆国内に波及、伊勢宗瑞(北条早雲)はこれに乗じて出兵し、早雲に攻められ堀越公方は滅亡した。

従来の通説では茶々丸は1491年、伊豆韮山の願成就院において北条早雲に討ち取られたとされているが、近年では宗瑞の侵攻は1493年であるとされ、また、新将軍・義澄の生母を殺害した反逆者とされた茶々丸も堀越から逃亡して、1498年甲斐で捕捉され、殺害されたとする説もある。現在、願成就院の本堂裏手に茶々丸の墓がある。

足利義維

足利 義維(あしかが よしつな)は、室町幕府11代将軍足利義澄の次男・10代将軍足利義稙の養子・14代将軍足利義栄の父。堺公方・平島公方。母は斯波氏。

生涯
阿波国守護細川之持の庇護の元、成長する。 1509年足利義澄の長男として生まれる 1527年、桂川の戦いで三好元長・細川晴元らと、弟の12代将軍足利義晴を擁する細川高国を打ち破り近江国に放逐し、堺に居ながら京都および山城・摂津を実効支配した。義惟は将軍には正式にならなかったが朝廷から左馬頭には叙任されており次期将軍として約束されていたため堺公方(または堺大樹)と呼ばれるようになる。 しかし、1532年後見人の三好元長が細川晴元により自害に追い込まれると、阿波国の天竜寺の荘園平島荘に引き上げた。この5年間は、実質上幕政の中心にいたと考えられている。

1553年、三好義賢が細川持隆を謀殺した事件に激怒し、阿波国を去って母方の周防国へと移るが、後に帰国する。

1566年、松永久秀らによる足利義輝謀殺後、久秀に擁立されて将軍となった嫡子義栄を後見する。ついで織田信長に擁された足利義昭との決戦を摂津国にて用意するも、その最中に義栄が病没し、再度阿波に引き上げその生涯を閉じた。法名は慶林院実山道詮。

子孫
子孫は阿波平島に代々住み、平島公方と呼ばれた。

しかし、阿波を支配した蜂須賀氏からは、足利姓を名乗る事を禁ぜられるなど、常に冷遇された。文化2年(1805年)、ついに9代公方足利義根が不満を爆発させ、先祖が政治を執った京都に去り、平島姓から足利姓に復した。

明治維新後に爵位を願い出たが徳島藩から去っていたため、古河公方系統の旧喜連川氏のように爵位を賜る事が出来なかった。

義維から数えて13代目の子孫にあたる足利進悟は2002年に95歳で永眠(歴史系雑誌歴史読本の有名人の子孫のコーナーにも登場したこともある)、現在は14代目の子孫で九州保健福祉大学の教授である足利義弘が足利家28代(尊氏から数えて)当主とされている。


2009年01月22日

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(バーミヤンけいこくのぶんかてきけいかんとこだいいせきぐん)は、アフガニスタンの首都カブールの北西230kmの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷(バーミヤーン渓谷)に設定されたユネスコの世界遺産(文化遺産)。

バーミヤン渓谷は古代以来の都市であるバーミヤーン(バーミヤン)の町を中心とするヒンドゥークシュ山脈山中の渓谷地帯で、標高2500mほどの高地に位置する。

古代から存続する都市バーミヤーンの近郊には、1世紀からバクトリアによって石窟仏教寺院が開削され始めた。石窟の数は1000以上にものぼり、グレコ・バクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。

5世紀から6世紀頃には高さ55m(西大仏)と38m(東大仏)の2体の大仏をはじめとする多くの巨大な仏像が彫られ、石窟内にはグプタ朝のインド美術やサーサーン朝のペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれた。バーミヤーンの仏教文化は繁栄をきわめ、630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れたときにも依然として大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたという。

その後、ムスリム(イスラム教徒)勢力がこの地にも及ぶようになり、イスラーム教徒による厳しい迫害によって次第に仏教徒の共同体は消滅していった。11世紀初頭にこの地を征服したガズナ朝のマフムードによって石窟寺院遺跡が略奪を受けたとも言われる。大仏も装飾が剥がれ、顔面部が崩落するなど長年にわたる放置のために大きな被害を受けたが破壊はまぬがれ、偶像崇拝を否定するイスラムの時代を通じても依然として多くの壁画が残されていた。

19世紀以降、アフガニスタンが国際社会に組み込まれ、西洋人や日本人が山岳地帯の奥深くまで探検に訪れるようになると、バーミヤーン遺跡は大仏を始め多くの仏教美術が残されていたことから俄然注目を集めることとなった。20世紀には多くの学術調査が実施されてその価値は高く評価され、一躍アフガニスタンの誇る世界的な文化遺産とみなされるに至る。

しかし、1979年のソビエト連邦のアフガニスタン侵攻以来アフガニスタンで続いてきたアフガン紛争によって大きな被害を受けた。2001年には当時のアフガニスタンのターリバーン政権の手により爆破され、遺跡は壊滅的な被害を蒙った。紛争終結後の調査により、一連の混乱と破壊により大仏のみならず、石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割が失われたと報告されている。

2002年以来、日本が181万ドルを拠出する仏龕の修復事業をはじめ、国際支援による修復が進められている。

大仏の破壊
2001年3月にバーミヤン渓谷の2体の大仏はターリバーンによって破壊された。

1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以来外国人の立ち入りが難しくなり、外国の支援を受けた調査と保存事業は中断状態に追い込まれた。1980年代以降の内戦でバーミヤーン市はハザラ人勢力の拠点となり、1990年代には内戦の激化にともなって遺跡の周囲にも多くの地雷が埋設されるほどの状況で、遺跡の破壊が世界的に憂慮された。

バーミヤーンはターリバーンによって1998年に占領され、ターリバーン政権のアフガニスタンの大半の平定によりアフガニスタン内戦の終結は間近と見られる情勢となったが、一方でターリバーンはイスラム教(イスラーム)の名のもとにパシュトゥーン人の古い慣習を国民に強制して人権侵害との非難を受けたり、アメリカ合衆国に対する国際テロの指導者とみなされていたオサマ・ビンラディンを庇護したりしたことで、国際社会との間で孤立を深めつつあった。

2001年2月26日、ターリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反する大仏を破壊すると宣言。彼らは世界の仏教国はもとより、諸外国のイスラム指導者たちや、政府、国際機関の中止要請を黙殺し、2体の大仏を爆発物によって破壊した。3月12日、ユネスコは2体の大仏がターリバーンによって破壊されたことを確認し、爆発によって大仏が崩れさる様子を撮影した映像は「アッラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」という言葉と共に世界中に配信されて大きな衝撃を与えた。

大仏破壊の背景として、遺跡の心配をするばかりで内戦で疲弊したアフガニスタン人を支援することには目が向かない国際社会に対してターリバーンが苛立ちを強め、偶像否定を強調してイスラムの名のもとに自己正当化をはかろうとしたことがある。しかし、この行為は異文化への理解力のない野蛮行為そのものであり、結果的には、これまでアフガニスタンの内戦に深く注意をはらってこなかった人々まで含め、世界のほとんどがターリバーンに批判的な心情を抱かせるのみに終わった。

また、ターリバーンのイスラム強調の動機として、当時ムハンマド・オマルらターリバーンの指導者に対し、彼らの庇護下にあったオサーマ・ビンラーディンの発言影響力が強まっていたことも指摘されている。

破壊後、その瓦礫から発掘された木片や藁などを放射性炭素年代測定法で分析したところ、東大仏の築造年は507年±12年、西大仏は551年±15年という結果が得られた。ドイツの調査チームの報告による。

現在、ヒロ・ヤマガタを中心としたバーミヤン アフガニスタン レーザープロジェクト実行委員会が設立され、バーミヤン アフガニスタン レーザープロジェクトが企画されている。

この企画は、作家が描くバーミヤンの仏像を多色のレーザー光線でバーミヤンの崖に投射し仏像を再現するもので、2012年6月中旬開始を予定している。 レーザーの像は週6日 日没から崖に向けて約1時間投射され、そのために用いる電力は太陽光発電などによって賄われ、投射時間外は、地元住民のために使われるという。
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登録経緯
遺跡は「バーミヤン渓谷の建造物群」の名により文化遺産に推薦されたが戦争のため保存事業が進まず、1983年に審議延期が決定された。

2001年末にアメリカのアフガニスタン侵攻をきっかけにターリバーン政権が崩壊し、アフガニスタン内戦が一応の終結をみると、遺跡の修復と保全に対して世界的な支援の機運が高まった。まず2002年春に日本政府が70万ドルを拠出してユネスコ日本信託基金を設立し、ユネスコと共同で修復と保存に乗り出し、2003年には危機遺産として世界遺産に登録された。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

1983年の審議延期時に推薦されていた登録基準は(ii)(iv)の2点である。
2003年の登録時には以下のような理由である。
(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
(vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。
詳細は、バーミヤン渓谷の石仏と壁画は中央アジアにおけるガンダーラ仏教美術の傑作であること(i)、シルクロードの仏教センターであったバーミヤン渓谷の遺跡は美術的、建築的にガンダーラ文化を基礎としてインドとヘレニズム、ローマ、サーサーン朝イランの文化が融合し、さらに後世にはイスラムの影響が加わった文化が栄えたこと(ii)、中央アジアでは既に失われた仏教文化の遺跡であること(iii)、バーミヤン渓谷は仏教文化の繁栄した時代の様子を伝える優れた文化的景観をもつこと(iv)、バーミヤン渓谷は西方における仏教の記念碑的な存在であること(vi)である

2009年01月15日

有機化学(ゆうきかがく、organic chemistry)

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有機化学(ゆうきかがく、organic chemistry)は、有機化合物すなわち炭素化合物の合成、性質についての研究を目的とする化学の分野である。伝統的には二酸化炭素や一酸化炭素、炭酸などは有機化合物に含めない。大体は C−C 結合か C−H 結合を持つものが有機化合物である。また、ある有機化合物を炭素以外(金属元素の場合も含む)の基で置換した構造を持つ化学物質も広義の有機化合物として有機化学の対象とされる物もある[1]。

構造有機化学、反応有機化学(有機反応論)、合成有機化学、生物有機化学などの分野がある。

100を超える元素の中で炭素の化合物だけが特に取り上げられる理由は、炭素が無限の多様性をもつ物質を作る材料になりうるからである。実際、現在知られている化合物のうち、炭素以外の元素のみからなるものは、炭素を含むものにはるかに及ばない。また生体を構成するタンパク質や核酸、糖、脂質といった化合物もすべて炭素化合物である。これは、炭素が −C−C−, −C−O−, −C−N− といった連鎖を任意の数だけ繰り返して共有結合できる唯一の元素だからである。ケイ素はいくぶん似た性質を持つが、炭素に比べると Si−Si 結合の安定度が低いために炭素ほどの多様性をもたない。

有機化学が誕生する以前から人類は様々な有機物を利用していた。食べ物については言うに及ばず、麝香や樟脳等の香料、石鹸やアルコール等がその好例である。石鹸は油脂を植物灰中の金属塩と反応させて作られていた。

従って有機化学の始まりを定義するのは異論のあるところである。初期の有機化学は有機物が持つ性質を分析することであったと考えられる。何故ならば有機物は人工的には合成することができず、生命の神秘的な力によって生まれると考えられていたからである(生気論)。二酸化炭素などは炭や木を燃やせば作ることができるため、生命力に依らない無機物であるとされた。つまるところ、人によって作ることができず、生物によってのみ作ることができる物質が有機物であると考えられていたのである。

生気論は1828年にフリードリヒ・ヴェーラーによって打ち破られた。彼はシアン酸アンモニウムの加熱によって有機物たる尿素が得られることを示したのである。これ以降も様々な有機物が合成されるに至り生気論は崩壊した。これによって有機物の定義は冒頭にある通りになった。

その後、様々な有機化合物の性質が調べられ数々の反応が発見された。その中で特筆すべきものとして芳香族化合物の発見があげられる。最初に見つかった芳香族化合物はベンゼンである。ベンゼンの構造はフリードリヒ・ケクレによって示された(注:「ケクレがベンゼンの構造を示した」というエピソードについては異論も唱えられている。本件の詳細はケクレの項目を参照のこと。)(ベンゼンの構造として別にプリズマンやデュワーベンゼンが提唱されたが結局却下された)が、二重結合を有する物質の割に反応性が低いことや、置換誘導体の種類が少ないなど奇妙な性質を持っていることが分かった。この奇妙な性質の原因が解明されるのは量子力学が導入されてからである。

さらに時代が下って1934年、ウォーレス・カロザースによって最初の合成高分子たるナイロンが作り出された。やがて有機化学の発展と共にゴムや接着剤、樹脂などが合成されるようになり、靴下から宇宙船まで様々な分野に応用されている。

また、有機化学は生物を構成する物質を扱う学問であり、生化学とごく密接に関連している。生化学における反応の理解や、生体物質の解析などに一役買っているのである。

現在では、有機化学は生化学や高分子化学の基礎として位置づけられている。

実験操作
有機化学の実験操作は現在までにかなり洗練され、ほぼ確立されたものとなっているので、まずそれらをしっかりと身につけることが重要である。 ただし、各手順は研究者によって微妙に異なることもあり、そこから流派(出身研究室)が推測されたりする。

実験器具の一覧
単離・精製(ろ過、抽出、カラムクロマトグラフィー、再結晶/再沈殿、蒸留)
構造決定(核磁気共鳴、質量分析、元素分析、赤外分光法、X線構造解析)

炭素骨格と官能基
有機化学で化合物の合成方法を考える場合、炭素骨格の構築と官能基の変換に大別することが多い。

一般の有機化合物は、鎖式炭化水素(アルカン、アルケン、アルキン)あるいは環式有機化合物(シクロアルカン、芳香族炭化水素、複素環式化合物など)を骨格とし、そこに官能基(水酸基、カルボキシル基など)が結合した構造を持っている。

官能基を変換することは比較的容易である。例えば、アルコールは適当な酸化剤を用いることによって、アルデヒドあるいはカルボン酸に変換でき、カルボン酸からさらにアミドやエステルへと変換することが可能である(官能基については基に詳しい説明がある)。

一方、炭素骨格を構築することはなかなか難しい。古くからアルドール反応やグリニャール反応が用いられてきたが、期待する炭素骨格を効率よく合成することは困難であった。しかし、近年では鈴木カップリングやメタセシス反応など、効率の良い反応が開発され、タキソールやシガトキシンのような複雑で巨大な分子も全合成することが可能となっている。

註・出典
^ 例えば、メタンのC-Hを塩素で置換した四塩化炭素CCl4はC−C やC−Hを持たないが有機溶媒の一種とされる。とは言え、メタンをすべて酸素で置換した二酸化炭素は無機化合物とされるように有機化合物を置換したものすべてが有機化合物であるということではない。